*大阪ロータリークラブ誕生 R01.11.13

 

 日本初めてのロータリークラブは大正9年10月20日(1920年)米山さんを会長に福島喜三次さんを幹事として、米山さんの呼びかけに応じた実力100万国の実業家23人のメンバーで発足いたしました。定例例会は毎月第二水曜日でしたが、幹事の福島さんは東京クラブには3回出席したばかりで、転勤命令によって大阪支店長として大阪に行くことになりました。

 東京では福島さんは小間使いみたいなもので、せっかくダラスで勉強したロータリー理念も空振りのままでしたが、大阪に移った福島さんは水を得た魚のように元気になりました。

 東京でのロータリーづくりに失敗した福島さんはロータリークラブを作るにはまずロータリーとは何かということを理解してもらうことが大事だと考えまして「ロータリー通解」で勉強したロータリー理論を解説したり、ダラスロータリークラブの歴史や毎週の例会の様子などを紹介したりして準備作業を始めました。

 

 幸いなことに、東京にロータリークラブという国際的なクラブが出来たとあっては、大阪も遅れをとってはならじとロータリークラブ設立に意欲的な関西財界の大御所「星野行則」は福島さんの大阪赴任を大歓迎し、ロータリークラブ設立の機運が高まっていきました。そういった最中大正11年に関西財界人の訪米経済視察団の話がもちあがり、星野さんが団長として派遣されることが決まりました。

 福島さんは事前に国際ロータリー連合会の事務所に連絡を取り、団長の星野さんを連合会事務所に行かせるので、事務総長が会って、大阪にロータリ―クラブを作るためのアドバイスをしてくれるように手筈を整えたのであります。事務総長チェスレイペリーは星野さんの来訪を大変喜びまして「あなたが大阪にロータリークラブを作りたいというご意向を持っていらっしゃるということを福島さんからの便りで承けまわっておりましたので、あなたが本当に引き受けてくださるなら今すぐその委任状を差し上げることができるように、事前に国際ロータリ―連合会の理事会の決議がとってありますので、本当にやってくださいますか」と持ち掛けますと、星野さんは喜んで「ぜひやらせてください」と二つ返事でした。こうして星野さんは大阪ロータリークラブ設立の特別代表に任命されて帰ってくるのであります。

 

 そして大正11年11月17日25名のメンバーで創立総会が開かれました。会長は星野行則さん、幹事は福島喜三次さんです。大阪ロータリークラブはできる前に十分なロータリー理論の勉強をし、その理論に共鳴して設立されたわけですから、初めから―タリ―の伝統を守るクラブとして出発したのであります。

 東京ロータリークラブはダラスの子クラブとして出発しましたが、大阪ロータリ―クラブは国際ロータリー直轄のクラブとして産まれたわけであります。この二つの流れはその後の日本ロータリ―運動の展開に微妙な違いをもたらすことになるのであります。

 

        佐古 亮尊


*ロータリーは親睦団体である R01.11.06

 

 米山さんで忘れてならないことは、東南アジアからの留学生にポケットマネーを出してひそかに援助していたことであります。米山さんが亡くなった後でこのことが知られますと、東京クラブはその遺徳を検証して米山奨学会を作りました。後に全日本のロータリークラブはその事業を発展させて今日に至っております。私たちは毎年人頭分担式に、会費の中から一定金額を拠出しております。

 米山さんは昭和19年9月29日に病気のために退任いたしましたが、奨学会の評議員会議長にされ、現職のまま昭和21年4月28日沼津市下土狩の別荘でなくなりました。米山さんはロータリーの世界に足を踏み入れてからというもの、ロータリー理論がその思想信条の中核となっていたのであります。

 

 米山さんの言葉にもありましたように、毎週一回の定例例会に出席することを通じて、知性に基ずく良質な考え方が知らず知らずのうちに他のロータリアンの知恵と交換され、それが全人格的な体験となって、私たちは育っているのではないでしようか。最初はメッキのような自己改善であったものがやがて本質的な自己改善となっていくのではないでしょうか。そして良質なものは人を納得させますので、それはロータリアンの信用という形で結晶することになり、その信用こそはロータリアンの財産となるのであります。

 ところがいまロータリアンは外に出たとき、それと同じようなことを地域社会の人にやっているでしょうか。外に出た時こそ信用ある行動をもって尊敬と信用を得ることに勉べきでありましょう。しかもそれが無料の奉仕でなされることに意義があるのであります。考えてみると、ロータリーというのは1905年に生まれてから今日に至るまで、そういうことの繰り返しではなかったでしょうか。それが楽しいから集まったのであります。

 ロータリアンが例会に出席することに目的意識を持ち、主体的にその中に入り込んで、会費は高くても集まってくる、それがロータリーの本体的功徳というべきでしょう。

 

 米山さんは言いました。

 「ロータリークラブとは奉仕クラブではない。ロータリークラブというのは親睦団体である。異業種の智慧を集めて相和する親睦団体である。その親睦の一義は自己研鑽である。肩の凝らない親睦の中で自分を再発見し、創造的に自分を作り直していくのである。そしてその親睦のエネルギーをロータリーを出た次の瞬間から、己の熟成度に応じて社会への感謝のエネルギーとして社会に放流して歩くのである。それがロータリーの実働である」と。

 ロータリアンは自分のインテリジェンスを出発点とします。例会に出たとき他のロータリアンのインテリジェンスと信頼の中に、さらに良質な信頼関係が相互の間に出来上がって、自己研鑽の実が出来上がっていくことになるのであります。

 その自己研鑽の親睦活動が奉仕の概念を生む母体なのではないでしょうか。

 こうしてロータリーはロータリーの鉄人たちによってさまざまの試行錯誤の後、20世紀商人文化の華といわれる思想を展開してまいりました。

 

佐古 亮尊


*三井報恩会 R01.10.30

 

 米山さんは常識関門の最期を「地域社会の職業をその横断面においてとらえ、一つの職種から一人だけ良質な人を選び、その人たちに定期的な出会いの場を与えて、定期的な接触の中から自分の業界では得られないある種の知恵、それからパーソナリティを基にする暖かな判断、そういったものを絶えず自分に教えてくれる社会制度のことを近来日本に到来したロータリー運動と呼ぶのである。諸君も将来因縁の熟した時にはその目的をよく理解して、ロータリー運動に参加してもらいたい」

と結んでおります。

 

 米山さんはまた昭和2年6月4日に編纂された「銀行余禄」の中に「新隠居論」を発表しておりますが、その中に「昔は60にして軍隊を免じ、70にして致仕する、とあった。特に日本の現在の状況において老人たちは早く隠居すべき理由がある。少々早めにそうしなければならぬと思う。しからざればあとの人たちが困る。隠居は必ずしも安逸をむさぼる東洋の陋習とのみ言うべきにあらず。西洋にても行われていることである。ただ隠居の仕方を異にする。

 我が国における隠居は全然世の中から隠れてしまうことを意味する。したがって未練も残り、断行がしにくくなる、西洋人の隠居は隠居するとともに隠居としてなすべき幾多の仕事がある。即ち今までは職務に忙しく追われて出来なかった人間として尽くすべき義務を尽くすのである。人間は自分の職業以外に何か社会のために奉仕するところがなくては、まだ人間としての義務を果たしたとは言えない」と、述べております。

 そしてその言葉の通り67歳で三井信託取締役社長を辞し、三井が我が国の社会事業と文化事業の発達を援助するために、昭和9年3月に、当時3,000万円の巨費を投じて財団法人三井報恩会を発足させるや、米山さんは初代の理事長となって、新隠居論通りの生活をするようになり、癩療養所の設立、癌研究施設の設置、結核対策事業、児童福祉事業、養老院の設立、母子ホームの設立、農村振興の諸事業等など多岐にわたり、枚挙にいとまのない奉仕活動を展開しております。

 

 そうした中で、農村振興の事業として特筆すべきものは、昭和10年に三井報恩会の理事長として、青森市外の西平内村という後進地帯の、村落社会さえ形成できないような自治体を何とかしていただけないかという内務省の要請を受けて、米山さんはロータリアンだったからこれをひき受けました。三井報恩会の予算は1年でしたが、何とか2年に延ばし、その後は自分のポケットマネーを使いまして昭和20年まで村おこし運動を続けられました。

 村に集会所を作り、冠婚葬祭などそこで集まって苦楽を分かち合うように指導し、村長経験者を指導者として迎え、心の在り方を教えてもらったり、経済基盤が弱いので畜産を奨励し、報恩会で牛を何十頭か買って村人たちに貸し付けるというようなやり方で、何とか村落社会が出来上っていったということです。

 その後も北海道に出かける途中にこの西平内村を訪ねては面倒をみもした。

 ある時村長が小学校を建てたいが金がないというのを聞いて、いくらかかるのだと聞くと、2,000円かかります、というので「北海道で必要な金だが、学校建設はより大事なことだと思うので、ここに置いていこう」と2,000円をさしだしました。当時の2,000円は想定外の高額でしたが、今もその小学校は立派に残っています。この目で見てまいりました。

 

 佐古 亮尊


*震災復興と東京RC R01.10.09

 

 世界各地からの多額の義捐金を罹災した地域社会の復興に充てることを決議した東京ロータリークラブは、まず東京孤児院に鉄筋コンクリート2階建ての不燃住宅を建て東京ロータリーホームと名付け、震災で孤児になった子供たちを収容いたしました。次に横浜に震災で倒壊した小学校を再建しました。

 横浜は東京ロータリークラブのテリトリー外でしたが、震災復興だからと踏み切って建設しました。これがのちに横浜にロータリークラブを作るときに国際ロータリーと悶着を起こす原因となったということです。

 ロータリークラブが子クラブを作る場合はそのテリトリーの一部を割譲してそこにクラブを作るというのがルールで、東京ロータリークラブがそのテリトリーを超えて横浜にいきなり子クラブを作ろうとしたことは違法になるのです。

 だから国際ロータリーが警告したわけですが、東京ロータリークラブとしては、かって震災の義援金を横浜に使って小学校を再建したことで、横浜を自分のテリトリーのような気分になっていたのではないでしょうか。

 すったもんだの末妥協ができて昭和2年に横浜クラブができることになったのであります。

 見解の相違で国際ロータリ―と悶着を起こしましたが、子クラブを作ることはよいことだからということで、横浜クラブができましたが、国際ロータリーは横浜を東京ロータリーのテリトリーの中に一度合併して、そしてこれを分割するという手数を踏んだのであります。 

 

 話はもとにもどりますが、東京ロータリーホーム落成式には内外の来賓を迎えて盛大な祝宴を催しましたが、その時東京クラブのメンバーは奥様を帯同して式典に参加しました。これが日本における家族会の始ということになりましょうか。さらに東京ロータリークラブは今までのようなルーズなことでは、世界のロータリアンに向かっても恥ずかしいことだと自省しまして、大正13年11月臨時総会を開き既得権の放棄を決議し、ロータリーのルールを守り、ロータリーの思想を勉強して、厳しいロータリーライフに立ち返ることを決議したのであります。こうして日本における唯一の既得権クラブは消えたのであります。

 そして「ロータリーの例会は人生の道場である」とする米山さんの敷いた路線に従ってその後の日本ロータリーは動いてきたともいえるかもしれません。

 米山さんは「ロータリークラブというのは奉仕団体ではない。親睦団体である。異業種の知恵を集めて相和する親睦団体である。その親睦の第一義は自己研鑽である。その肩の凝らない親睦の中で自分というものを見出し、創造的に自分を作っていくのである。だから親睦の第一義を遂げるのが出来ればロータリ―の使命は終わるのである。その親睦のエネルギーを得たロータリアンはロータリーを出た瞬間から社会への感謝として行動しなければならない。その行動の時他の人たちでは果たすことのできない特有の社会改良のエネルギーをその人の熟成度に応じて放流して歩くことになる。これがロータリーの実働である」と言っています。

佐古 亮尊


*関東大震災と東京RC R1.09.25

 

 米山さんの紹介で東京ロータリークラブに入会した花王石鹸の長瀬富郎さんは、かつて小堀憲助先生に「私は若いときに米山先生のご指導を受け、米山さんが亡くなってからは宮脇 富(あつし)先生のご指導を受けて、ロータリー精神をいささか身に着けることができました。私は会長になれと何度言われたかわかりませんが、一切お受けしませんでした。というのは私のロータリー精神と私の同僚ロータリアンのロータリー精神とあまりに断層がありすぎたからです。また最近の国際ロータリーは末端のロータリアンには理解しがたいものがあります。私が死んだら東京ロータリークラブの中で米山先生の精神を戴したロータリアンが全滅することになるでしょう」と語ったということですが、日本ロータリーの基礎を打ち立てられて米山先生の功績は忘れてはならないでしょう。

 

 さて東京ロータリークラブは発足しましたが、出席は悪いし、親睦もろくなものではありませんでした、何せみんな一国一城の主ですから、世のため人のためなどということは全くありませんでした。長瀬さんの言う断層は大きなものだったと思われます。そうこうしているうちに大正12年、関東大震災がおこりました。東京が壊滅状態になっているというニュースがけ世界中をかけめぐりました。

 当時シカゴにありました国際ロータリー連合会の事務所では事務総長ペスレー・ペリーと会長で「ロータリー通解」のガイ・ガンディが鳩首協議をいたしまして、国際ロータリー連合会が蓄えていまして基金の中から25,000ドルの見舞金を東京に送ることを決めました。今ならさしずめ50億円にもあたりましょう。ほかにも海外のロータリークラブからも義援金が送られて総額75,000ドルにも達したといわれています。

 さてその義援金を贈るについてチェスレー・ペリーが心配したのは東京が壊滅状態というなら東京ロータリークラブの事務所もやられているだろう。それならば大阪に送ったほうが良いのではないかと大阪ロータリークラブの幹事福島喜三次さんのところに指示を仰ぎました。

 福島さんは国際ロータリー連合会の好意に甚深のお礼を述べ、東京クラブの事務所は大丈夫だったから東京のほうへ送ってもらいたいと返答しまして、義援金は東京の方へ送られてまいりました。米山さんをはじめとする東京ロータリークラブの面々はロータリーの国際組織としてのすばらしさに電撃に打たれたように感動しました。米山さんはその義援金についてメンバ―と協議をいたしました。

 我々メンバーの中にもその家がつぶれたり、家族の者がけがをしたりした人も沢山いるが、我々メンバーは何とかなる、せっかく頂いた義援金に我々メンバーが手を付けたとあっては恥ずかしい、今本当に必要とする罹災した地域社会の復興のために役だてるべきであると協議一決しました。

 それは誠に立派なことで、日本が世界の一等国になれたのはこのエネルギーがあったればこそでしょう。

佐古 亮尊


*東京ロータリークラブ誕生 R1.09.18

 

 東京にロータリークラブを作る特別代表のチームにパシフィック・メール汽船会社の横浜支店長ウィリアム・エル・ジョンストンを加えることを要求してまいりました国際ロータリーは、彼が上海の支店長として上海ロータリークラブの会員であったことで、ロータリークラブがどんなものであるかを知っているということを買っての指名だったと考えられます。こうして改めて特別代表に米山さん、国際連盟本部との折衝はウィリアム、諸々の使い走りは福島さんという布陣ができ、トロイカ方式で東京ロータリークラブの設立を急ぐことになりました。ウィリアムは改めて米山さんにロータリーの何なるかを教育したと思われますが、米山さんの頭は依然として実力百万の代表でした。

 こうして実力百万石の実業家23人が1920年(大正9年)10月20日銀行クラブに集まって東京ロータリークラブが発足したのであります。もちろん会長は米山梅吉、幹事福島喜三次、定例例会は毎月の第2水曜と決めました。

 次の例会は11月10日です。第3回例会は12月となります。そうすると「年末で皆様御多忙のことと存じますので、例会は休会といたしたいと存じます。同様来年の正月の例会も休会といたします。さようご承知いただきます」

 こんなことで心中穏やかでなかったのが一人福島さんでした。

 

 福島さんはダラスにいたときおそらくガイガンディカの「ロータリー通解」で勉強していたと思われますので、例会というものが大事なことを承知しております。こんな時自分の意見を述べようとしたとおもいますが、会員はみな当代一流の、百万石の実力者ばかりで、下っ端の福島さんの出る幕はありませんでした。みな「俺たちがロータリーなんだ」と言わんばかりで、ロータリー理論などというものは見向きもしなかったばかりか、ロータリーを小馬鹿にするような状況だったことは想像に難くありません。

 ロータリーは毎週例会を開いて、地域社会の職業人の中から一つの職業から一人だけ会員に選ばれた良質な人たちが親睦の中に相和し、切磋琢磨して人格を磨き、実力を涵養していく制度なのです。

 そう考えてくると米山さん自体がロータリーを全く理解していなかったのではないかという疑問もわいてきて、米山さんをもって日本ロータリーの始祖とするには当たらないという意見もありました。然し、週一回の定例例会が義務付けられたのは1922年の国際大会で国際ロータリーいわゆるRIが発足し、定例例会を週一回と定義したことから始まるので、それ以前のクラブは先にわれらのクラブありで、ロータリ―クラブがあって、その連合体としてRIができたということですから、1922年の国際大会の決議には拘束されません。所謂既得権保有クラブなのです。東京クラブもその既得権保有クラブだったので、米山さんのやったことはルール違反でも何でもありません。その後米山さんはロータリーに傾倒し、数々のロータリ名言を吐いて教訓を残されました。

佐古 亮尊


*日本ロータリー誕生の迷走 R1.09.11

 

 送別会で「日本に帰ったら東京にロータリークラブを作ってもらいたい」という会長の要請でしたが、福島さんは「これは大変なことだ」と一瞬顔を曇らせたことでしょう。日本にはロータリーに関する認識は全くないうえに、自分はダラスでは支店長だからロータリーに入れてもらったが、日本に帰ればただの社員にすぎない。しかし、福島さんは「頼まれていやというなよ、ロータリアン」ということを心得ていましたので、「やってみましょう」と答えるほかありませんでした。

 ダラスの会長は地区ガバナーを通じて国際ロータリーの会長に「福島君が東京にロータリークラブを作ることについて全権を委任してもらいたい」という請願書を提出しました。国際ロータリーの理事会は「1920年6月末までに日本国東京にロータリークラブを創立することについて福島喜三次君に全権を委任する」と決めて委任状を交付しました。日本人特別代表の第一号です。

 しかし、東京に帰ると兵隊の位で言えば中尉くらいの社員でしかない福島さんに元帥大将、富豪を以て構成されるロータリーを作るなんてできるような話ではなかったのです。というのも、貧乏人の心の渇きをいすための親睦会だったロータリーが、お互いの切磋琢磨と努力で段々と実力を蓄えて富裕になり、1910年代になると段々金持ちが入ってくるようになり、1915年代には大金持ちでなければロータリーには入れないという体質に変わってきて、地域一流の名士となり、富豪となって初めて入会できるロータリーになっていたのが福島さんの体験したロータリークラブだったからです。

 しかし、国際ロータリーから全権をゆだねられている、何とかしなければならないという切羽詰まった福島さんが最後に藁をも掴む気持ちで頼ったのは、ダラスの一宿一飯のご縁にすがる思いの米山梅吉さんでした。

 

 米山さんにすれば、「一業種一会員ということは実力百万国の実業者の代表を一人選べばいいんだな、アメリカではやっているならばやがてわが国でも必要となるだろう、わしに任せておけ、やってあげましょう」ということでした。

 しかし、米山さんのロータリー認識は福島さんが多少美化して述べたものを聞いただけでしたから様になりません。瞬く間に期限の1920年6月がやってきて、国際ロータリーの委任状は失効することになりかねませんでした。福島さんは国際ロータリーに、「米山梅吉という大実業家にロータリーを作ることの全面的な協力をお願いしてきましたが、6月末までにロータリーを創立するめどは立ちませんでした。しかし、見通しは明るいので、今しばらく期限を延長していただきたい」という釈明書をだしました。国際ロータリーでは不安を覚えまして、期限を延長する代わりにこちらの推薦する人物を一人特別代表チームに加えることを要求してきました。その人物というのはパシフィック・メール汽船会社の横浜支店長ウイリアム・エル・ジョンストンでした。

佐古 亮尊


*福島喜三次 R1.09.04

 

 東洋綿花の取締役の中にドイツ人のウィリアムという人がおり、彼はダラスロータリークラブの正会員でした。新しい支店長がやってまいりましたので、ウイリアムは「近年アメリカであちらこちらにロータリークラブというのができておりますが、私はそのダラスのロータリークラブの会員です。本来は社長が会員になることになっておりますので、社長に一度クラブの例会に出ていただきたい」と誘いました。

 福島さんも早く地域社会になじみたいと思っていましたから、すぐにOkしました。こうして福島氏は入会の誘いを受け、日本人として初めてのロータリアンとなったのであります。

 前後の状況から判断しますとその入会は大正5年(1916年)のことであったと推定されます。しかし、クラブにはウィリアムが正会員として在籍しておりましたので、福島さんの身分はウィリアムのアディショナル会員ということになります。

 ところが大正3年に勃発した第一次世界大戦は拡大して大正6年にアメリカがドイツに宣戦布告したことにより、ウイリアムは敵国人となってドイツへ帰らなければならなくなりました。そこで福島社長は正会員ウィリアムの後を受けて正会員に推挙され、日本人正会員の第一号となったのであります。

 

 福島さんは日本人第一号とあって、ロータリーについて少し勉強したのではないかと思われますが、もしそうだとすると、福島さんがまず第一に手にした参考書はガイガンディカの「ロータリー通解」だったとおもいます。

 ガイガンディカの「ロータリー通解」が出たのは福島さんが入会する前の1915年の事でした。

 「ロータリー通解」は「ロータリー倫理訓」採択の後を受けて、簡明にロータリー理論を解説したもので、純度が高く初期ロータリーの集大成として書き上げられています。福島さんの語学力をもってすれば、この書の思想を十分に読み取られたであろうことは想像にかたくない。

 ところが、福島さんのダラス生活はその後長くは続きませんでした。1918年世界大戦の終結によって、綿花の買い付けに見込み違いをして、会社に数百万の損害を与えることになってしまって、本社召喚の命令が出されることになったのです。

 悪いときには悪いことが重なるもので、サンフラシスコの石田礼助も買い込んだ品物の売りさばきができなくて、これまた会社に数百万の損害を与えてしまいました。一番かわいそうだったのはニュ―ヨーク支店の高田某でした。戦争がまだ続くと思って買い込んだ鉄鋼の思惑が外れて会社に2百万の損失を与えてしまい、その責任を感じて自殺してしまったということでした。

 それやこれやで福島さんは本社に召喚されることによってダラスクラブを退会することになりますが、クラブでは盛大な送別会を開き、会長は「日本に帰ったら東京にロータリークラブを作ってもらいたい」と持ち掛けてきたのでした。

      佐古 亮尊


*東洋綿花株式会社 R1.08.21

 

 日本にロータリーが始まって来年は100年になります。日本ロータリー100年史の編纂の事業が始まったことを「友」で発表しておりましたので、完成を待ちたいと思いますが、ここで日本のロータリーのことについてお話をしておきたいと思います。

 日本へのロータリーは二つの経路から入ってきました。一つはアメリカ、テキサスのダラスのクラブをスポンサーとして大正9年10月20日(1920)、東京ロータリークラブが創立されました。

 もう一つは国際ロータリーの直轄で大阪に大正11年11月17日に大阪ロータリークラブが創立されました。こうして誕生した両クラブは親クラブ子クラブの関係ではありません。

 したがって、東京ロータリークラブを親クラブとする東京系ロータリークラブ群と大阪ロータリークラブを親クラブとする関西系ロータリークラブ群との間には思想的に少し異なるものがあります。

 まず東京クラブの方ですが、大正の初めアメリカのダラスには三井物産の子会社「東洋綿花株式会社」がありました。

 大正6年、目賀田種太郎男爵を団長とする政府派遣のアメリカ財政経済使節団の団員として選ばれた三井財閥の常務米山梅吉氏は、その年の暮れにはダラスにある東洋綿花株式会社を訪れ、社長の福島喜三次宅に一泊しました。本店の大番頭の訪問とあって、それは下にも置かないような歓迎であったろうと想像します。

 福島さんは会社の現況報告をした後、ダラスの有名人のグループ、ダラスロータリークラブの会員となっていることを少し誇らしげに話したのではなかったでしょうか。ロータリークラブというのは会社の社長など地域社会の企業の代表者をはじめ、ダラスの富裕クラスの有名人を以て組織されている親睦団体であることを説明したことでしょう。その夜のロータリー談義がどれくらい米山さんの記憶に残っていたかはわかりませんが、このご縁が後に東京ロータリークラブを発足させる遠因になっていることは想像に固くありません。

 米山さんは一泊した次の朝「テキサスの 野の東や 初日の出」の一句を残しておりますが、ダラスの一泊は米山さんにもかなりのインパクトを残したと言えるかもしれません。

 

 ではその福島喜三次とはどんな人だったのでしょうか。

 福島さんは佐賀県有田市の出身で、今日の一橋大学の前身、東京商科大学のさらに前身、東京高等商業学校の卒業で、なかなか英語がうまく、学者タイプの人でしたが、三井物産の社員として何一つ不足のない人でした。

 ちなみに申しますと、アメリカには当時、ダラスのほかにサンフランシスコとニューヨークに三井物産の子会社があり、それぞれ会社の決済を待たないで、独断で売買契約ができる特権を与えおられておりました。中でもダラスはアメリカにおける綿花の集産地として重要な位置にありました。

        佐古 亮尊


 *ニコニコ箱 R1.08.07

 

 ニコニコ箱についてはクラブ内に内規が設けられているのが実情のようですが、本来内規などない寄付金であります。内規は一定の目安であって、絶対的なものではありません。少なくても結構、多ければ多いほど結構というものであります。こうしてニコニコ財源は目標の立てられない財源であります。目標の立てられない財源ですから、年間事業予算の中に組み入れることはできません。これが会計処理上の一般原則であります。

 1924年以後のニコニコは本来不時の収入ですから、年間の分を貯めておいて、6月30日に閉めまして、そこで固定したものを次の事業年度の予算の中に組み込むのです。ですからニコニコ財源の処理は一年遅れとなるわけであります。こうしてロータリー運動の精神性が確立すると同時にロータリークラブが行わんとする団体奉仕の財源を賄う原則が確立したと言われています。

 

 日本におけるニコニコ箱の起源は大阪クラブに昭和6年、東京クラブに昭和10年と二つの例があります。大阪クラブの創案者は藤原というロータリアンで、90歳を超えて矍鑠としてロータリーを楽しんでおられたということです。しかし、大阪クラブのものは言わば罰金箱でした。目出たいときにも、罰金的な場合でも浄財を入れるのがニコニコ箱だとすると東京クラブのそれがニコニコ箱の始まりというべきでしょう。

 昭和10年に東京クラブの社会奉仕委員会が東京ロータリーホームに収容されている子供たちを一日玉川園に招待して、お土産を持たせて帰したらどんなに喜ぶだろうと立案しましたが、お金がありません。充当する特別会計がなかったのです。そんならと、東京室町にある三越本店の裏側にあった有名なラシャ問屋上村伝助(上伝)商店の大番頭「関 幸重氏」がありあわせのボール箱を取り出して、会員の席を回り、軽妙洒脱に会員の慶事を取り上げ、財布の紐をほどかせて600円の募金を集めました。そのお金で社会奉仕委員会は立案の趣旨を達成することができました。それから何かある毎にボール箱を持ち出し、おめでたいことの自祝の金を集めて、これを社会奉仕の財源にしたのが、ニコニコ箱の起こりです。

 東京ロータリークラブの理事会はいつまでも品の悪いボール箱でもあるまいと、三越に依頼して、恵比寿の像を彫った木箱を作ったのが第一号のニコニコ箱で、今ではその恵比寿像も剥落しているということですが、その箱は今でも東京クラブでつかわれているということです。

 ちなみに、その「関 幸重氏」は昭和15年東京ロータリークラブが軍部の弾圧によって解散して、東京水曜会と称した時まで会員でしたが、昭和24年東京ロータリークラブが国際ロータリーに復帰するときは高齢の故をもって復帰されず、戦後のロータリーにその名を残すことはありませんでした。

佐古 亮尊


*中核となる価値観(2) R1.07.17

 

 国際ロータリーが大切にしている「中核となる価値観」の第4番目は「多様性」ということです。

多様性といわれると、なんでも多けりゃいいという感じに受け取られるのか、会員を増やせということのスローガンのようにされて、某RIの会長はゾーン研修会で、奥さんたちをどんどん会員にしなさい、と強調したことを思い出します。前にも言ったことですが、じゃその奥さんたちの職業分類はどうしたらいいのか、それには触れられませんでした。

 私はその多様性というのは、職業分類の多いことを言ったのだと解釈しております。ある人はロータリーのことを「Classification Club」と定義したりしておりますように、職業分類はロータリーにとって重要なテーマであります。ポール・ハリスがシカゴに居を構えたのが1898年のことでしたが、住んでみるとみんな冷たい、実業家の集団は敵同士のように冷たい、それも同業がいるといつ寝ごみを襲われるようなことにもなりかねないという警戒心から、と思われるのでした。

 隣は何をする人ぞという憂鬱にたまりかねたポールは何とかしなければいけないと思って、「互いに睦み合うグループを作って、みんなで仲よくしよう」とやってみたって上手くいくはずはない。そんな時、先輩のお得意さんたちの集団を見て、異業種の人たちは仲良くやっていることに気づきました。だから一つの職種から一人だけということでグルーピングすれば上手くいくんじゃないかと思ったのです。その思いを3人の仲間と語らい、さらに3人の仲間を得て、1905年2月23日に親睦を目的とするグループを立ち上げたのであります。

 その後紆余曲折はありましたが、一業種一会員制はロータリークラブ存立の最低条件となって今日に至っております。今日では同業者がクラブには何人もいるではないかといいますが、国際ロータリーが認める範囲内において5人まで許容されるようになりました。詳細に見れば同業とみられる分野においても、ちょっとした専攻の違いを見つけて職業分類に対処しているように思われるのも、親睦を保つ上での対策となっていることにかすかな安堵を覚えるのであります。

 だがRIの会長ともあろう人が、奥さんたちをどんどん会員にしなさい、と言うような無責任な発言には怒りを禁じえません。

 

 さて、最後の強調事項はインスピレーションといことです。

 インスピレーションとは単なるひらめきではなく、人の励ましとなるような素晴らしい発想という意味があるようですが、そのように人様の役に立つようなひらめき、それを大事にするのがロータリアンではないでしょうか。

 そういったインスピレーションを大事に育て、個人的にその思いを地域社会に実践していくことがロータリアンの使命でもあります。「インスピレーションになろう」というRI会長テーマがありましたよね。そうした、ロータリー本来の使命I serveを謳ったものと私は解釈したいと思います。

佐古 亮尊


*中核となる価値観 R1.07.03

 

 近年国際ロータリーが大切にしている「中核となる価値観」というのがあるが、そこで謳われている5つの価値観というのは「親睦、奉仕、高潔性、多様性、リーダーシップ」です。

 親睦と奉仕とはロータリーの基本概念ですから今更申し上げることもないとは存じますが、親睦ということは、べたべたに仲良くしようということではありません。親睦という中には人間の社会性を形成するためのあらゆる現象が含まれておりますが、そういう親睦のすべての意味をひっくるめての中心概念となるのは「心の錬磨」ということです。心の錬磨があって、いろんな楽しみが出てくるのではないでしょうか。小堀先生はこれを「純粋親睦」とよびました。その心の錬磨がロータリアンをして自己啓発と実力の形成を可能ならしめていくのだとおもいます。

 その自己研鑽の成果が奉仕の心を作っていくことになり、地域社会に対する奉仕の実践となって実を結ぶということになるのです。自分ではそうは思わなくても、その心にあふれたものは私たちの五体を通じて社会に放流されていくことになるのであります。このことを小堀先生は「親睦持って奉仕のこころをつくる」といわれたのです。それがロータリー本来の奉仕の概念だと私は思っております。

 日本ロータリー第二代のガバナー井坂孝は「ロータリアンよ、奉仕に憂き身をやつすことなかれ」といいましたが、そ 

のもとになる自己研鑽と親睦の醸成を忘れてはいけないという警告ではなかつたでしょうか。

 

 次に高潔性とは何かということですが、ロータリアンの品格の問題です。これについてはロータリーは当初から、会員に取るのは地域社会の良質な職業人ということを標榜としてきました。その職業人の心得として採択されたのが、「全職業人を対象とするロータリー倫理訓」でした。

 商売は儲けなければ何にもなりません。だからといって儲けるためには何でもやっていいかというとそうではありません。やっていいこととやってはいけないこととがありません。そのためには常に商売の相手方のことを忘れてはいけない「その取引の根本に友情を以てせよ」というのが、ロータリーの心であります。

 初期のロータリアンは世界恐慌を経験して、商売を営む上においては自分の職業に誇りを持たなければならないが、そのためには職業倫理を守らなければならない。職業倫理を実践することにロータリーの本質があるという自覚でした。

 ロータリアンは金銭に集中してはいけない。確かに金銭は人間関係においてその終末処理の問題として避けては通れないものですが、その前に自分は世の為人の為に、それにふさわしい義務を投下したかということを考えてみようじゃないかということです。そうすれ私的利潤の追求が世のため人のためになるというのであります。

佐古 亮尊


*Service above self. H31.04.24

 

 二つあるロータリーの標語のもう一つは「Service above self.」です。

 1911年ミネヤポリスの初代会長フランク・B・コリンズは「ロータリークラブが創立されて以来ロータリアンが常に念願する所は私利私欲ではない。私利私欲を持ってロータリーに参加した者はロータリアンではない。我等ロータリアンの志す所は挙げて世の為人の為という世界を確立するところにある。その中にいささかも自我の主張などはあってはならない。

「Service not self.」だ、と説いたのであります。

 東洋人にはこの考え方はよく分かるのですが、自分と他人とを峻別する欧米人には理解しにくいところでしょう。サービスという心の世界と自我とは対立しております。ところがその自我を否定せよというのです。自我を否定するとサービスの世界がよく分かるはずだ、ロータリーの精神もこの中にある、とやったのです。

 中世のキリスト教神学では、この地球上の森羅万象の背後にあってこの自然の事、人間の事を司る絶対者の意思があって、その絶対者の意思の中では我々の生といい死といい、人生というものは本当にちっぽけなものにすぎない。その二度とない人生を意義有らしめるためには自分というものをその絶対者の意思の中に埋没して行くように自分の人生をもっていかなければならない、そのためにはちっぽけな自分というもの一切捨てて絶対者の世界に埋没していくことが、サービスの世界であるという考え方であります。したがってロータリーの考える願いも「Service not self.」だというのがコリンズの考えでした。

 

 1911年シェルドンの「He profits・・」の提唱がなされた直後に是が出てきて、大会の決議になるわけです。決議といいますが、その頃はまだ合意の確認、コンセンサスみたいなものでした。

 ところがシェルドンは自分を無にして絶対者の世界に埋没してしまったら科学的思考を拒否することになりはしないか、我々は現代社会に生きているのだから、もっと自分というものを生かさなければいけない。Selfの中の自由意志の存在もみとめていきたい。但しその自由意志というのは自分というのは他人の投影であり、他人は自分の投影であるという考え方を前提とする自我でなければならない。シェルドンによれば其れが経営学の根底でもあるというのです。それは片一方の足を算盤の上に置き、片一方は宗教の上において自分を見つめながら企業管理をしていこうという考え方になるわけですが、notは自己否定が強すぎると議論していたシカゴのロータリアンがabove位でどうだという発言に、シェルドンの意向を伺うと、彼もうなづいたという事でService above self.に決まったといわれ、これはシェルドンの発想だといわれたりして伝承されています。

 シェルドンは、我々はもっと現実の世界の中に両足をしっかり地に着けて、企業人としていつも綺麗な所に企業を誘導していかなければならない。そのためには自分の殻の中にこもっていてはいけない。常に例会に参加して自己研鑽をとげ自分を磨いていくことが大事、そういう精神世界を総称して、サービスの世界と呼ぼうよということで「Service above self.」といったのです。

佐古 亮尊


*He profits・・・ H31.04.17

 

 ロータリー流れの中でも見ると、政治的な姿勢は団体としては排除するが、個人的には別に排除するものではないとして、政治的な争いに巻き込まれることなく、主目的は友情を暖める団体であるという事で形成されたロータリーですが、そのロータリーに1907年に「我等少数の職業人の親睦のエネルギーを世の為人の為に」という概念が生まれて、クラブにおける情報媒介が何らかの形で自分たちの幸せだけではなくて、その地域社会の全ての人の幸せに結びつくような運動に展開して行こうではないかというように展開してまいりました。

 ロータリーにおける社会奉仕の概念の誕生であります。それから一年たちまして、フレデリック・シェルドンが入会してまいりました。当時彼は26歳でした。

 

 ロータリー運動の「我等少数の職業人の親睦のエネルギーを世の為人の為」という時に「他の団体では果たすことのできないようなやりかたで」と提案して、彼はその主張を「He profits most who serves best.」という標語に纏めました。

 シェルドンによりますと、商売で儲ける為には条件がある、それがserves bestです。最もよく奉仕の心を実践するというのですから、一番良い程度において心が奉仕という境地の中にあって、努力しているという事が基本条件です。そうすればそこで受ける利益は質量ともに最も多くなるでしょう。のみならず質が良いから、信頼を得て取引先に継続性ができて、ずっとその利益を得ることになるというのです。

  心の程度が1とすると、自分の行動は心の制約を受けるから自分もまた1です。1の力しかないものが幾ら儲けようとしても得られる儲けは1でしかないでしょう。心の方が2になると行動の主体である自分も2になる、そして2の思考で会社を管理すると、最後に自分の取り分として得る物も2にならざるをえない。

 精神機能を一番底において、その精神機能を良質化することに心を置いて、その心で企業に励めばその精神機能の改善の分だけ利潤が上がってくるという考え方です。

 

 ポールの小数の職業人というのは一業一会員制の事ですが、シェルドンは一業一会員制による同業者排除の原則に新しい意味を盛りました。シェルドンは、一業一会員制は親睦を保障する為だけの原則ではないとして、彼は先ず地域社会に存在する職種に科学的な職業分類の原則を適用しまして、一つの職種から一人、他の職種からも一人という原則を守って、むやみやたらに会員の選考が出来ないようにしました。その結果ある種の職種には奉仕のエネルギーが溢れていても、その中から一人しか取れないとなると他の多くの人はロータリー運動から排除されることになりますが、もともとロータリーは数を多く集めて勢力を構成しようというような考えはありません。ロータリーは集団の形成を嫌いますので、集団の中でも弱い集団の形体を選んでいるのです。

 弱い集団ではあるが、その一人ひとりは良質であるから価値があるのだという立場をとっているのです。ですから会員を選ぶ時の基準は人間の良質ということであります。

佐古 亮尊


*ロータリーは人間関係論 H31.04.10

 

 可哀想なびっこの少年の面倒を見てやる事は良いことであるのに、この子の将来を考えればここで突き放すことがこの子の将来のためであるとする、この相反する行動の客観原則とはシェルドンによれば「天地の理法」だというのです。算盤じゃなく、人間関係論です。これは見えるものではありません。しかし努力すれば垣間見ることもできるでしょう。その努力の媒体として私たちはロータリー運動を選んだのです。

 ロータリー運動を通じて自己研鑽を遂げていくと、縁あって自分がかかわりあった人との因縁を大事にして、素晴らしい人間関係が構築されていくことになるでしょう。

 第二次大戦後日本の実業家が自分の行動を通じて培ってきた自分の精神の自己主張が優秀であったからこそ、日本の企業は世界の雄になることができたのではないでしょうか。ロータリアンはそういうものを作っていかなければならないと思います。ことに今は一人ひとりのロータリアンがその自覚を持って行動すべき時ではないでしょうか。

 

 江戸時代、寛保の頃、山下京右衛門というと、京都ではかなり知られた俳優でした。あるとき当時売り出しの女形沢村四郎五郎を相手役として演じたところ、京右衛門の評判は圧倒的に高かったが、四郎五郎の方はあまり人気が出ませんでした。

 ところが、その芝居を、たまたま、その頃一代の名優と歌われた二代目坂田藤十郎が見物にきたのです。京右衛門は大先輩に敬意を表して挨拶にでました。

 「芸の未熟なものですが、どうぞご感想を・・・・・・」と、頼みました。すると藤十郎は、お義理にでも誉めてくれるかと思いのほか、「全くお前さんの言う通り、ずいぶん下手だね」と言ったきり、さっさと帰ってしまいました。

 京右衛門はムッとしたが、何といっても相手が名優なので、やはり自分の芸にどこか拙いところがあるのだろうと思い直して、演技にいっそうの工夫を凝らしましたところ、見物の受けは益々良くなる一方でした。

 それで京右衛門はもう大丈夫だろうと思い、辞を低くして頼んで再び藤十郎にみてもらったところが、藤十郎はやはり、「折角見せてもらったが、何度見てもお前さんは下手だよ」というのでした。

 その場は、やっと怒りをおさえましたが、京右衛門の胸は収まりません。

 その夜、京右衛門は、どこが悪いのか確かめた上で、場合によっては只ではおかないと、勢い込んで藤十郎の家へでかけていきました。

 「自分としては精一杯で、これ以上工夫の凝らしようがございません。どこがお気にめさないのでしょうか?」と頭を下げてたずねました。

 すると藤十郎は、「いや、お前さんの芸はどうにかできているが、然し、いやしくも一座の頭となる身になれば、出来るだけ相手役なり下の役者を引き立てて、一人で場をさらってしまうような仕草は慎まなければならない。お前さんの相手役の四郎五郎は今売り出しの若手なのに、お前さんが先へ先へと出るので、彼は折角の芸を持ちながら手の出しようがない。見物の喝采はお前さんに集まっているが、それは真の喝采ではない。お前さんが自分を抑えて、相手役の芸を引き立たせながら、見物から喝采を受けたら、それこそ本物なのだ。お前さんを下手だといったのはその辺の心組みを言ったわけだよ」と答えました。

 京右衛門はさすがは名優だと、その言葉に心から感銘し、以後一層俳優としての道に精進したといいます。

 

 芝居というものは、主役の俳優の演技力が如何に優れていても、ただそれだけでは決していい芝居にはならないことは言うまでもありません。いい芝居とは主役を初め登場するすべての俳優の呼吸がぴったりと合っていなければなりません。

 舞台の上をただ通り過ぎるだけの端役といえども、端役は端役なりにその芝居の全体にとってなくてはならない一役であり、端役だからといってどうでもいいというのではなく、「いい芝居」というものは、登場人物一人ひとりが水も漏らさぬ形で有機的につながることによって、初めて迫真力を持って観客の胸を打つものなのです。

 だが、その場合でも芝居の重点は何といっても主役の上にかかっている事は言うまでもありません。それだけに主役の演技力によって芝居の良し悪しが左右されるほどに、思い責任を負っているものと言わなければなりません。

 そのかわり、その演技力が卓抜であればあるほど、観客はその卓抜さが、本当は他の俳優との有機的なつながりを持つ事によって生かされている事などは見ずに、もっぱら主役個人の演技にのみ、我を忘れて喝采を送るものなのです。そして、そういう華やかな喝采に包まれていると、主役自身もいつの間にかそれが自らの演技力の卓抜さによるものと自惚れ、舞台の上で意識的にそういう喝采を期待しての演技をすることになるんです。

 

 藤十郎が「何度見てもお前さんは下手だよ」と言ったのはそこのところをついているのです。

「いやしくも一座の頭となる身になれば、出来るだけ相手役なり下のものを引き立てて、一人で場をさらってしまうような仕草は慎まなければならない」と叱り「真の喝采は、他の俳優の芸を引き立たせながら見物からうけるものなのである」と教えているあたり、さすがに名優の言葉として味わい深いものがあります。人間関係を深めることが根本であると教えたのであります。

 

 ロータリアンの社長の心が受付のお孃さん、電話の交換手にまで及んで有機的な繋がりを持ちながら、しかしその部署々々で自由闊達にその職責をこなしていくことが会社にとって大事なことではないでしょうか。

 やがてそのような社長の心が、そのような会社の良質な思考が地域社会を、同業者を潤して、社会改良にもつながっていくことになるのではないでしょうか。

佐古 亮尊


*調和の原則 H31.04.03

 

 ロータリーの真髄は「利己と利他との調和に中に宿る」ということを言いますが、商人が材料を買ってきて、加工賃を幾ら使って、宣伝広告費やアフターサービスの費用をいくらか貰って、従業員の給料と自分の儲けを加算した上で、それを製品の数で割って、その製品の定価をつける。それ以外はビタ一文貰うわけではないから、自分は利己と利他とを調和させているんだと言う人がありますが、どんなものでしょうか。自分の必要なものは先ず分捕って、商売の名をかたって、後は貴方様のものですよというのは、自利を中心として利他を図る物であって、調和とは言い得ないのではないでしょうか。

 また逆に人が生活して行く上にはこういう傘が必要だ、そういう傘が必要だとなると、そういう傘が手元にないときは自分の所にある傘を人に渡す時に却って何がしかのお金をプラスしてやらなければならないということになるでしょう。そうすればこれは利他を先として自利をセーブするということになって、これも利己と利他との調和とはいえないでしょう、相手の身になって考えるといっても皆嘘です。

 相手の身になって考えるということは、相手にオベンチゃラをいうことでもなければ、相手に歯に衣着せずに苦口を言うことでもありません。どちらも嘘です、心のそこに調和の原則が機能していないからです。調和の原則を機能させるためには客観原則をたてなければなりません。

 例えば、お医者さんの場合患者にたいして医学の原理を入れて、励ますものは励まし、叱るものは叱る、それが相手の身になった医療と言うことになるのではないでしょうか。看護師さんは看護法の原則を入れて、病院と言う社会を生活体として捉え、励ますものは励まし、叱るものは叱る、それが利己と利他との調和ではないでしょうか。

 

 民約論のジャンジャックルソーは一日の研究で疲れると夕方散歩に出かけました。あるとき町外れの辻を通ると、貧しくかわいそうなびっこの少年がいました。

 彼は持ち合わせの小金や食べ残した飴などをポケットから出してその子にあたえました。少年は丁寧にお辞儀をしてお礼を言ってそれをいただきました。こうしたことが何度か繰り返されるうちに、初めの頃ははにかみながらお辞儀をしていた少年が遠くの方から「おじさん」と不自由な足を引きずりながら急いでやって来るようになりました。

 ある日ルソーは膝に抱いた少年の頭をなでながら、考えました。「思えばかわいそうな子どもだ。私でも時々こうしてお金やお菓子でもめぐんでやることは、いい事に違いはないが、今は、ねだるようになった。本当にこの子の事を思えばこれでいいのだろうか。生涯をもったこの子の将来の独立ということを考えれば、私はこの子の将来を誤る事にならないだろうか」そう気付いたルソーは膝から少年をひきずり下し「偉くなるんだぞ」と言い残すとスタスタと散歩を切り上げ家にかえると、二度とその通りに顔を出さなかった、ということです。教育者としての一見識ではないでしょうか。

        佐古 亮尊


*ロータリーは団結しない H31.03.27

 

 1934年ポール・ハリスはその著「The Rotarian Age」の中で説いております。

 人類文化史の中で、人間の人間たる所以は人を愛するところにある。そして愛する為に宗教ができた。キリスト教あり、佛教あり、類似した儒教の理論などがある。しかし、それらは人を愛するが為と称してその中でさらに宗派を形成した。そして宗教戦争に見るように、同じキリスト者でありながら、人を愛する為に武器を持って立ち上がり、思想信条が相容れない人間を殺戮とすることを以て慈悲の実現と考えるかのごとく戦った。

 人を愛すると言うことが第一義であるべきに、人間は歴史の過程の中で長年にわたり、一つの思想信条を守らんがために他の思想信条を信ずる団体を殺戮することを以て、慈悲の実現と考えたことは厳然たる事実である。その一番ひどい物が国と国との戦争であろう。実はこの悪因縁に終止符を打つ社会制度がロータリーである。

 

 ロータリーは一業一会員の原則で地域社会に存在するありとあらゆる職種の人達を、その職種から一人だけ会員に採りますが、その思想信条は各人によって自由ですから、保守的な考えを持つ人は保守的な考えを持ってロータリーに入り、進歩的な考えを持った人は進歩的な考えを持ってロータリーに入ってきますが、そこで自分の考えを譲るようなことはありません。しかし、それらの人達が例会の中で心を通わせあって、保守的な人は保守的なグループの中では得られないある種の思考を進歩的な人からもらい、共産党的な人は共産党的なグループの中にいては得られない、ある種のエネルギーを自民党的な人からもらうと言う形で、一例会終るごとにより良い保守になり、或いはより良い共産党に育っていくことになるのではないでしょうか。

 

 こうして人間が一つの思想信条を唯一絶対と思うが故に、それを死守せんとして他の思想信条を持つ人を敵としてこれを排除する事を以て、あたかも奉仕の実践と考えるような悪因縁に、ロータリー運動は人類文化史上始めて決別をしたのであります。

 だからロータリーは団結をしません、しかし団結をしないままにロータリアンは一つである。云々このゆえにあるロータリアンが「ロータリーは21世紀の扉を開く思想である」と言ったのは至言といって良いでしょう。

 この様にロータリーは団結しません。ひたすら自己の研鑽をとくのです。その自己研鑽を阻害する悪に対しては厳しく対処していくのであります。

 

 ポールは「ロータリーは奉仕の美名に隠れて、善と悪との間に橋渡しをするものではない」として、世の中には悪い奴がいるがそれらにたいしては奉仕哲学を行使することを通じて、それらの者にさらに教育の機会を与えるべく、厳しく対処しなければならないと言っています。

 そのへんの厳しさを入れないと企業は自由競争に勝てないのではないでしょうか。ロータリー運動の理念を見ると殆ど全部が個人倫理の問題ばかりです。自己研鑽を前提としなければ分からないものばかりです。クラブに関するものは「目的」だけです。これとて個人倫理の延長線上にあります。

佐古 亮尊


*ロータリーは生涯教育である H31.03.20

 

 一人ひとりのロータリアンが例会に出て、自分の業界ではお目にかかれないような良質な人だけれども異質なものを持っている人と親睦の仲に相和して、その異質なものを交換することによって、一例会終るごとに自分のパーソナリティは少しでも磨かれているはずです。こうしてロータリーは徳を持っている優秀な管理者に週一回の例会を通じて、知らず知らずのうちにさらに、大きな教育的効果を及ぼしているということになるのであります。

 これを教育的機能と言うならばロータリー運動はすばらしい教育的機能を持った運動であるといっていいでしょう。

 

 教育と言うのは人間がこの世に生を受けてからこの世を去るまで、周りの人との接触を通じて、常に自分の思考の軌道修正を行い、自分を向上させていく全プロセスの事をいうのだそうです。その意味において人生は生涯教育であります。先生がおり、生徒がいて、限られた場所における特殊な教育だけが教育ではありません。この特定の場所における教育を自己教育とでも呼ぶならば、最も良質な地域の社会人を集めて定期的に自己生涯教育を行える制度はロータリーだけではないでしょうか。

 ほかにクラブはありますが、精神的な親睦を自覚しておりませんので、それは教育にはなりません。こうしてロータリー運動に参加した人達が参加できなかった人達にも、自他を分たぬ思考を持って及ぼして行けばいいのです。

 

 このように徳を持って地域社会に立っている職業人が、一つの職種から一人だけという決まりで集って、それらの人達の知的交流、つまり切磋琢磨による自己教育的機能を果たす制度はロータリーだけです。私たちはこのことに誇りを持って然るべきだと思うのであります。しかしロータリーの例会だけでどれだけの心の交流ができるかわからないと言う人がいることもわかりますが、心の交流は言葉を交わすことだけではありません。心のパイプが繋がっていることが大事なのです。そしてお互いがほかの同僚を師としてこれに学ぶ姿勢がなければなりません。学ぶ姿勢がなければ何も出てはきません。その意味において例会の一時間と言うのは誠に貴重な一時間と言えるのではないでしょうか。

 

 そんなに堅苦しい物なのか、ロータリークラブは本来社交クラブではないか。親睦を大事にするクラブではないのか。

その通りです。しかし紳士の交わりです。その一線を踏み外してはいけないと思います。親睦と言う中には人間の社会性を形成する為のあらゆる現象が含まれていて、そういう親睦のすべての意味をひっくるめての中心概念は心の練磨と言うことだといいます。ロータリーは社交クラブとしてその延長上に、体験によるある種の原則を積み重ねて、さらに思想的にぐっと深いところに制度的な基盤を置いた大変ユニークな運動なのであります。

       佐古 亮尊


*ロータリーの思考類型 H31.03.13

 

 自他を分たぬ思考といっても、それが他の団体では果たすことのできないものとなるのは例会出席を通じて醸成されるのです。ロータリーの金科玉条は例会です。例会出席を通じて造られるのであります。こうしてロータリー運動は例会出席を通じて永遠の命を得るということです。世代の交代を越えて例会の親睦の中で相和することによってロータリー運動は持続性を持ってくることになるのであります。

 例会なんてただ飯を食いに行くようなもので、無理して出て行く意味があるのか、と思う人があるかと思いますが、ロータリーは現象の背後にある精神的な価値を見ようとする物であるということはシェルドンがロータリーの中に導入した偉大な原則であります。ロータリーは現象に拘泥しないで、現象の背後にある原理的な、文化史的な意味を見ようとするものであります。

 

 それぞれの職種から、同業者の中で人類連帯の自覚を持った良質な人をロータリーに迎え入れるわけです。もともとこれらの人は同業者の中では徳を持って立っておりますから、心ある同業者からは尊敬と信頼を得ております。しかしその人達にも質の相違がありましょう。良質だといっても人間形成の過程においてその発展の度合いにいろいろ特徴がありましょう。良質だといってもそれぞれプラスマイナスがあるはずです。

 そういう人達が集るわけですから、ロータリーの中における各人の発想には違った物があるのは当然でしょう。それが週一回の例会で食事を取り、仕事の事は忘れて、互いに心を通わせ合ううちに、各人の発想が違えば違うほど相互に啓発される所のものは大なるものがありましょう。この点に着目して、ガイ・ガンディカは「例会に参加することを通じて、自己の限界を自覚し、以て転機を恵せしめる運動がロータリー運動である」と定義しました。

 そしてその発想の交換で学んだ物を自分の業界に持ち帰り、さらに地域社会に及ぼしていくのです。こうして一つの心の改善が社会全般に及ぶという効果を生ずるのであります。

 

 こうして一つのパーソナリティを良質化すると、行動の世界でその功徳は八方にひろがるのであります。こう見てきますと、東洋哲学ではつい最近まで持っていた思考類型と同一のものであることを知ることができるのであります。ロータリーの親睦のエネルギーを世の為人の為というこの社会現象を思想の世界で分析してみますと、デカルトが近代哲学を提唱する以前の思想的指導者たちが自分の思想を展開する拠り所とした物の考え方と同じパターンであることに気付くのであります。

 東洋哲学の大国柱とされていたものとロータリーが考えている思考の図式は同一であったことを知るのであります。

          佐古 亮尊


*ソリダリティ H31.03.06

 

 人類連帯の自覚をもった人を職業分類の原則を適用して会員に取っていくのがロータリー運動の集団形成の基本原理である、とロータリーの哲人アーサー・フレデリック・シェルドンは言いましたが、人類連帯とはsolidarityつまり「紐」の事です。

 

 全世界に沢山の人がいます。皆能力も違い、性格も違いますが、それぞれ人生目的を持って動いています。しかし、人間というのは人の間と言う関係によって結ばれているのではないでしょうか。人の人たる所以をなす、この目に見えない関係が紐の内容です。したがってシェルドンが言おうとしたのは、良質な人間は、見た目にはばらばらだけれども、見る眼を持って見ればある種の目に見えないが強い共通の紐によって結ばれていることを認識せざるをえない。そういう認識を踏まえて自分の企業管理をやっている職業人のことを良質な職業人と呼んだのだと思います。

 地域社会におけるこのような良質な職業人をロータリーに選別して入会させているわけですから、その親睦も良質な親睦になり、良質な親睦であるが故に、その親睦のエネルギーは他の団体では果たすことのできない社会改良の功徳を社会万般に流すことができるというのであります。

 こうしてロータリーは現象の世界から思想の世界を掘り起こそうとする偉大な作業を始めたことになるのであります。

 

 このようにしてロータリーの親睦を通じてさらに良質化された一人ひとりの良質なエネルギーは、ロータリーの例会を離れた次の瞬間から地域社会の万般のことにたいして八方に広がるのです。

 ロータリーの奉仕は八方に散る所にロータリーのロータリーたる所以があるのであります。そして質が良いから他人の尊敬と信頼をうけるようになるのであります。

 

 私たちは肉体的には独立であるが、心の世界では人類の全てと因縁を持って、ある種のつながりで結ばれていると考えて、自分の考え方を、自分を取り巻く全ての人たちの幸せとの相関関係において捉えて、その上で自分の主体的な判断の出来る人を、シェルドンは人類連帯の自覚を持った職業人とよんだのです。

 そして同業者の中からこれを一番もった人を、一つの職種から一人だけロータリーの中に取り入れようと言うわけですからロータリーは質を保証していることになるのであります。

 ロータリーにとって一番大事なのは一人ひとりのロータリアンなのです。そのロータリアンが持っている善意とか思いやりとかという質的な価値を、言い換えれば自他を分かたぬ思考を、ロータリーはロータリーの基本財産と考えるのです。シェルドンはそれをsolidarityといったが、自他を分かたぬ思考とは言い換えればお節介焼きということです。

佐古 亮尊


*社交クラブの中立性 H31.01.16

 

 イギリスで封建社会を打倒しようという市民運動が起こりましたのは17世紀のことですが、国王と国民とが対立するようになった時、国民の指導者たちに大きな影響をあたえたのがスイスでカルヴィンが起こしたピューリタニズムの思想でした。その頭目だったクロムウェルは1649年国王チャールズ1世を処刑して共和制を樹立して独裁政権を樹立しましたが、クロムウェルの没後ピューリタニズムは解体し、アメリカのニュウイングランドに移り住むことになります。その末孫の中にポール・ハリスの祖父が出てくるのであります。

 このピューリタニズムの考える国家観、国民の国民たることの本質に関する考え方がポール・ハリスを通じてロータリーの中に入ってきて国際奉仕論として実を結ぶことになるのであります。日本では明治維新の直後福沢諭吉がその国家論を説いたことがありますが、時期尚早で、富国強兵を中心においた明治政府には取り入れられなかったのでした。

 国民の利益と国王の利益とがぶつかると、国王は自分が正当だと思い、国民の側は自分たちが正当だと思っているわけで、一つを立てれば、一つは立たず、政治の世界は力の世界ですから、力によって相手を屈服させようとすると内乱になるわけです。

そういう時クラブは政治情勢の媒体となるのです。ある人達はあるクラブに集って国民の代表者の情報を媒介する。又ある人達はクラブで国王の側の情報を媒介するという具合に、情報の交換が行われてクラブは新聞の一・二面の機能を果たしていたのです。

 しかし、国を挙げての政治的対立ですから、国王側が勝つと国民側にあったクラブは関係者が処罰されることになり、反対の場合も又同様です。こうして1688年に漸く内乱が終わり、一つの国家に一つの秩序と一筋の繁栄の兆しが出てきたときに、社交クラブの代表たちは集って、政治はもうこりこりだ、有意義なクラブ運営をつづけていくには政治運動には一切かかわりを持つべきではないと反省をいたしました。これが社交クラブが社会制度として近代的に確立される第一の要件となったというわけであります。

 しかし、人間は本来政治的な存在です。どういう政治をやるか、どういう政治を希望するか、各人が真剣に考えなければならないところであります。

 その中で今よりもより良い社会にするという夢の実現のために身体を張っている人達のことを政治家というわけであります。この人達は自分の努力が反対者であっても、賛成者であっても、全ての人たちに今よりベターな社会生活を保障する為には力の世界の中でリーダーシップを持つより他ないのであります。政治とは所詮力であります。国家というのは力しか持ちません。

ところがロータリーは力を持ちません。その代りに徳を持っています。原理を持っています。力を持ちませんから政治の世界からは中立でいよう。力の世界からは離れていよう、と17世紀の指導者たちは考えたのです。だから社交クラブが高級な社会制度としてその根を下したのは1688年以降のことだったのです。

佐古 亮尊


*社交クラブの効用 H31.01.09

 

 生産性が向上して暇のできた人達はまず学問にとりくみましたが、次にやったことはお互いが拘束されることなく集って心を暖めあうという事でした。労働に疲れた隣近所の人達が一定の場所に集って、お茶を飲んだり、お菓子を食べたり、お喋りをしたり、歌を歌ったりして皆楽しく一定の時間を共有しました。行かなくても誰も文句を言うわけではなし、行きたいときに行けば良い、そういったひとつの集りが社交クラブの始まりでした。

 当時はまだ新聞もありませんから、一定の日に、一定の時間に、一定の場所に、近所の人達或いはある種の人達がその社交クラブに集ったのは情報交換の為でもあったのです。当時のクラブは社会的な情報交換の機能を持っていたのです。

 ロータリー運動の中で地域社会におけるありとあらゆる情報が自由に媒介できるようなプログラムを組むことが要求される原点はここにあるのであります。

 ロータリーは地域社会の紳士の集りだから金の話しは駄目、政治の話も駄目とよく言われますが、この考え方は昭和15、16年ころの日本ロータリーの文献に出てくるんだそうです、地域社会の現状打開の夢がロータリーの例会の中で暖められていなくて、地域社会に戻ったとき何を以て社会改良をやるというのでしょうか。

 ロータリーが政治から中立だという事は17世紀に社交クラブが政治運動に巻き込まれたことからの反省から出て来たものだったようで、つまり社交クラブは団体としてはあらゆる政治活動から中立でなければならないということです。しかしここで「団体としては」ということは「ロータリアン個人としては」ということとは別だと思います。個々のロータリアンはクラブ例会の中にも政治的情報、経済的情報やあらゆる情報をむしろ持ち込んで啓発し合うことがなければならないとも思います。但し政治的課題について決議をしたり、政治的に選択さるべき一つの可能性を団体として選択してはならないと言うことです。これがロータリーにおける政治禁止の問題なのです。勿論社交クラブとしての当然のルールである他人の顰蹙を買わない限り、個人としての政治的活動は自由ですし、経済活動も自由です。

 ロータリーは一業種一会員制ですから地域社会のもっとも良質なリーダーの集まりとして良質な情報が例会の中に充満していなければ例会活動から出てくる親睦のエネルギーを世の為人の為に放流することはできないことになるのではないでしょうか。もともと社交クラブというのはそういうものを媒介する機能を持っているのでそれを故意に禁止することはある哲学がなければ許されないことではないでしょうか。

 こうした世俗の情報を媒介する機能を社交クラブが持っていたので、社交クラブは都市生活における確かな社会制度になるにいたったのでありましょう。これがあったから国王が何を考え、○○公爵がどうしたとかいう情報をも知ることができたのです。こうして各種グループの中で親睦のうちに情報を交換することが盛んに行われていたのではないでしょうか。

佐古 亮尊